第2章 花嫁はどうして来るのか[4]

@筆者:五味洋治プロフィール [ 2011年 6月 8日 ]

最大の送り出し場所

方正県には別の顔がある。日本に嫁ぐ女性が多いことで知られているのだ。その数は累計2万とも3万人とも言われる。ある報道によれば、方正出身者は日本に約3万5千人が日本に住み、約6万8千人の住民に日本滞在暦がある。人口のほぼ半数が日本と深い関係をもっている。同県出身の在日華人からの日本円仕送りなどで、外貨交換額が全国に約2900ある「県級行政区」の中で27位とトップクラスだ。
国有企業が衰退し、経済が停滞している中国東北部で、唯一、安定した好景気に沸いている。銀行には日本円と人民元の交換レートがいつも掲示され、郊外には日本円で500万円ほどもする豪華な家が建設されている。日本に嫁いだ女性からの送金が街の経済を潤しているのだ。
第二次大戦中、中国東北地方には日本の若い女性が花嫁として赴いた。『祖国よ』(岩波新書、小川根津子著)には、満州開拓団の男性団員に奥さんを迎えるため、「大陸の花嫁」キャンペーンが行われたことが記載されている。
開拓団の幹部が日本に帰国し、宮城県、青森県などで花嫁の募集が行われた。花嫁の多くは写真で相手の顔を知っていたが、現地で夫となる人と初対面という人も少なくなかった。
当時日本の農村は、不況にあえいでいた。大陸花嫁は、「たとえ家庭の経済事情が悪くないとしても、当時の封建的で暗い環境の中、満州に明るい夢を託す女たちは多かったはずである」とある。
歴史の皮肉というのか、今、花嫁の流れは六〇年前と反対になり、中国の女性が日本を目指す。日中友好の流れの中で、日本人との結婚だけが東北地方の一大産業となっているのは、どう考えればいいのか。歴史的ないきさつを調べてみた。

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方正県の仲人

方正県付近に放置されていた日本人の遺骨は、松田ちゑさんという、残留婦人の日本人女性が偶然発見し、墓の建設を願い出る。それがきっかけになって墓が建設された。松田さんは中国黒竜江省の方正県に関する記録映画「嗚呼、満蒙開拓団」(2009年公開、羽田澄子演出)というタイトルの映画にも出てきて、当時のことを回想していた。
また方正県の政府の幹部が、この映画の中で「開拓民は日本帝国主義の犠牲者だ。だから私達は公墓の建設に同意した」と話している場面があった。
その松田ちゑさんが東京板橋区に住んでいることが分かり、訪ねてみた。
もう90歳。山形県天童市出身で、旧満州に入植。敗戦で黒竜江省の方正県に逃げ、中国人男性と結婚した。
日中国交正常化を受けて、1991年に日本に帰国する。今は長男夫婦や孫と住んでいる。苦労をしたに違いない。若いころの写真には視線に鋭さがあった。風雪を乗り越えてきた人が持つ独特の光だ。今の松田さんは、突然の訪問者の私にニコニコしていた。
何を伺ってもはっきりした返答がかえってこない。息子さんは、「衰えてしまってね」と残念そうに話した。中国と日本で計3回脳梗塞を患ったそうで、その後遺症だろう。今は毎日養護老人ホームに通って、ゆっくり入浴したり、友人とゲームをしている。
松田さん旧満州から日本に引き揚げてきた時の体験を本にしている。100冊だけ印刷した。その一冊を借りてきた。
それによると彼女は読み書きが上手く、日本に帰りたい残留孤児の書類を作ってあげていた。そして松田さんは、方正県の女性と日本の男性の橋渡しをすることになっていく。

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沢内村との因縁

話は、中国東北部から、日本の東北地方に飛ぶ。
岩手県旧沢内村と言えば無償医療を行っていた村として有名だ。たくさんの本でも紹介されている。この村は今はない。隣村と合併して西和賀町という名前に変わってしまったからだ。
日本経済が高度成長時代に入ったころ、村は「貧困・多病・豪雪」の三重の重荷を負っていた。
優秀なリーダーとして知られた深沢晟雄氏が村長に当選した後、1961年に国に先駆けて乳児医療費や老人医療費の無料化を実施。さらに1962年には、乳児死亡率ゼロという画期的な記録を達成した。全村民の生命を守るために、健康の増進、予防、検診、治療、社会復帰まで一貫した地域包括医療体制を築き上げ、全国の注目を浴びた。
しかし、日本人男性との国際結婚のメッカとなっている方正県とのつながりについては、あまり知られていない。私は日中国際結婚が、この村から始まったと言って過言ではないと思っている。
始まりは1986年にさかのぼる。方正県に水稲の技術指導に訪れた藤原長作さんという人が主人公だ。
優れた稲作技術を開発し「水稲王」とも言われた藤原さんは、方正県の人たちが、中国に残された残留孤児を家族として迎え入れ、この地で亡くなった日本人の供養をしてくれたことに感謝の意を示そうと、技術研修生を沢内村に招いた。

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花嫁探し

技術研修生とはいえ、実際は半分花嫁候補だった。ちょうど日本の農村は深刻な嫁不足が広がっていた。前出の松田ちゑさんが、農村の花嫁探しを手伝うことになった。日中国際結婚の最初のサポート業者である。
3人の女性が見つかった。松田さんが簡単な日本語を教え、彼女たちを日本に送り出した。当時の記録を見ると、3人が日本の男性との結婚が決まり、結婚相手が見つからなかった中国の女性は、この村の家族に養子縁組をして、家族となった。
花嫁の中には過去の離婚歴を隠している女性がいた。また、結婚後のトラブルが原因で頭痛薬を大量に飲んで自殺を図る娘さんもいた。逆に男性が、感情のもつれから中国女性を叩き、問題になったケースもあった。
当時の沢内村には、こういった花嫁探しについて「合法的な人身売買だ」として、批判的な人もいたという。2010年、旧沢内村を訪ねて、村役場でこの嫁探しを担当した米沢一雄さん(現・社会福祉法人やすらぎ会理事長)から話を伺った。「顔つきは似ていても文化は全く違う。中国では男女平等意識が強いが、日本はそうではなかった。それにわれわれには中国に対する偏見もあった」と米田さんは言う。女性たちは日本語が分からないため、結婚後のトラブルは昼夜を問わず頻発。子供を残したまま村を去った女性もいた。

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